【卒業生インタビュー】⑨ 思い立ったが吉日で行動する~大学生のよりなりさん~

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こどもの森ですごした人たちは今・・・

こどもの森卒業生インタビュープロジェクト第9弾は、現在立命館アジア太平洋大学1回生のよりなりさんにお話を伺いました。

よりなりさんプロフィール

・2006年生まれ、18歳。立命館アジア太平洋大学1回生(2025年7月現在)

・こどもの森在籍期間:中1~中3(2019.4~2022.3)

・今の自分の生き方を表す言葉:本能に正直に、ご縁に誠意を尽くし、思い立ったが吉日で行動する

(写真に写っている方のご了承を得た上で掲載しています)

*本記事は、卒業生の語りをなるべく忠実に伝えることを大切にしています。そのため、成長の途上にある姿や、まだ言葉になりきらない思いも含めて、等身大の今をそのまま受け止めながら記録しています。

――お忙しい中、ありがとう。まずは自己紹介をお願いします。
こどもの森には中学部5期生で入学させてもらって、中学1年生から3年生までいました。今は、立命館アジア太平洋大学という大学の1回生です。

――大学では何を学んでいるの?
うちの大学は3学部あって、僕はアジア太平洋学部というところで、かなり幅広い扱いをされている学部です。国際関係だったり、政治学だったり、文化とかメディアとか、どちらかというと文学部系の学部になります。大学の先生の説明自体も「アジアと太平洋を幅広く扱っている学部で、まだ成長段階です」っていうくらい、特段定まっていないというか。だから、比較的自由度の高い学部だという印象ですね。

「働きまくった3年間」

――高校の進路を教えてもらっていいですか?

高校は、三重県にある私立の農業高校の「愛農学園農業高等学校」というところで、3年間寮生活をしてました。

――農業高校を選んだのはどうして?
こどもの森の「ワールドオリエンテーション」(中学部で取り組む総合学習の一つ)っていうのがあるんですけど、僕らの時代はコロナ禍で休校になって。自宅でオンライン学習に入るタイミングで、テーマになったのが「農」(農業)でした。うちの家も昔から市民農園で家庭菜園をしていたり、生産者の方が身近にいたり、そういう意味で農業とは近しいところにありました。生産者の顔が見えるプラットフォームから野菜を買ったりもしていたので。
ただ、小学校・中学校になるにつれて、だんだんそういう方面から離れていってしまっていて、休校になったときに時間があり余って。「だったら、せっかくだし、『農』っていうテーマだし、自分で体感できたらいいんじゃないかな」と思って、市民農園を一区画借りて、キュウリとか育てました。けっこうハマったのがインゲンで、その中で案外「農業もありかも」って思ったときに、「愛農高校っていう高校、どうかな」と思って。それこそ進路を決めたのが、中3の1月とかで、超ギリギリに進路を決めました。

 

――愛農高校?
はい。三重県の私立「愛農学園農業高等学校」です。全寮制で、一学年25人。生活の半分は農作業で、収穫物の売り上げは学校の経営にもつながっています。でも、もちろん無賃。だから今、賃金がもらえるアルバイトをするだけで「ありがたいな」と思える。そういう感覚は、同級生もだいたい持っていると思います。
当時は週5日のシフト制で農作業に取り組み、月に一度は7日間連続で働くこともありました。加えて週2回の実習もあり、本当に“働きまくった3年間”だったと思います。

「葛藤と気づき」

――高校の特別な思い出とかありますか?
一番の大イベントは、学園祭。各学年で劇をつくるんですが、毎年、人間関係や温度差で揉めていました。2年目には、僕が中心になって劇をつくろうとしたんですが、いろいろあって、かなりしんどかったです。3年目は演劇の監督を引き受け、台本も自分で書いて、みんなでやり切りました。けれど、学園祭のあとに、1年の頃のリーダーから3時間にわたって説教されました。「なんでお前が仕切ったんだ」と。

モヤモヤをぶつけられるだけで、何を言っても通じなくて。学園祭のことだけじゃなく、それまでのいろんなことが積もり積もっていて、先生に相談したところ、「一回(実家に)帰るか」と言われて、高3の12月に実家の京都に戻ることになりました。

入りたくて入った高校でしたけど、やっぱりしんどかったですね。農作業よりも、むしろ人間関係のほうが。こどもの森では、「話し合えば通じる」という希望があったけど、高校ではそうじゃない場面も多くて。自分を守るために、「離れる」という選択をしました。

それで、実家に戻った12月から3月の間に、映画を撮らせていただきました。

――映画?
僕は5歳の時からずっと映画監督の河瀨直美さんがDJをしているFM京都のラジオ番組にハガキを投稿していて、今年で14年目なんですけど。

あるとき、河瀨さんからインスタグラムで「映画を撮りませんか?」とダイレクトメッセージがきて、企画書を出させてもらったんです。結局、助監督さんだったり、周りのスタッフさんにもたくさん助けてもらって、25分間の短編映画を完成させました。

――貴重な経験だね。

よりなりくんにとって生き方や進路を決める「転機」だと思う出来事ってありますか?
高校ではなかなか自由な時間がない中で、高2の夏に2泊3日で小豆島まで自転車で行ったのは、すごく貴重な経験でした。香川県の小豆島は、醤油で有名な町で。

醤油の原料はもちろん、作るのに必要な木桶まで、全部一貫して生産されている町なんです。大豆は兵庫とかから来ていたと思うんですけど、それ以外は基本的に自分たちのところでつくる、っていうやり方をしていて。そんな中で、旅の途中に、昔ながらの「木桶」でつくっている醤油と出会いました。

自分は農業をやっていて、「生産者」というアプローチもあるけど、こういう「加工」というアプローチも面白そうだなと感じて。この旅は、自分の人生の転機になったと思います。

ただ、そのあとも宙ぶらりんなままで、「大学に行くのか、それともつながりのある農家の下で研修するのか」っていうのを考え続けていました。
そんな中で、たまたまAPU(立命館アジア太平洋大学)という大学を見つけて、高3の夏に1泊2日で別府までオープンキャンパスに行ったんです。

本当に、去年の今ごろ初めて来たんですけど、そのときに大学のキャンパスの雰囲気を見て、「ここなら行く価値あるかもな」って思ったんです。

――農業高校からAPUってなかなか繋がらない流れだよね?

高校で出会った日本史の先生で、自ら申し出て仕事を放り出し、家族ぐるみで半年間ノルウェーにホームステイしてしまうような破天荒な教師がいるんですけど、その人にAPUに行きたいという相談をしました。そこから、2か月半にわたって「なぜAPUに行きたいのか」という対話が、僕とその先生、そして自分自身との三者で始まりました。異世界三者面談みたいな感じでしたね(笑)。

その対話の中で、その先生に「あなたが生きたいのはどんな世界か。簡単に言うと、戦争がある社会か、それとも平和な社会か」という問いを投げかけられ、先生流のチャートを書かされました。

そのチャートは、

① どんな社会で生きたいか
② その社会とは?(平和とは何か)
③ その中でどんな働きをしたいのか?
④ そのためにはどんなスキルや準備が必要か

というステップで構成されています。

これは本当に難題でした。特に、頭が固く想像力に乏しい僕にとっては、大きな挑戦だったと思います。この先生は、いい意味で生徒をいじめるのが大好きな人で、僕もすっかりターゲットにされましたね。それでも悩みながら、高校3年の9月末に、ようやく一つの答えにたどり着けました。それが「木桶醤油職人」という道でした。

これになるには、単に直線距離で進む方が早いけれども、自分が知っている世界はちっぽけで、農業に関しても、正直、学校の勉強は経営面では役立つけれど、現場ではどれだけいてもわからないことが多い。だからこそ、現場第一主義という考え方が大事だと思いました。これはきっと木桶醤油づくりでも同じだと思います。

同時に、世界のさまざまな姿を知ったうえで、農業に携わる人たちの姿はすごく生き生きしているのを見てきました。だから、自分もまだ見ぬ世界で生きる人々と出会える、最後の公的なチャンスとして大学に進みたい。そして、自分たちの温泉文化を守り抜く別府という街で学びたいと思うようになりました。それで、今流行りの総合型選抜で「木桶醤油の職人になりたい」という思いを書いて大学を受験し、結果的に合格して今ここにいる、という感じです。

「今の暮らし」

――今は何をして、どんな気持ちで日々過ごしている感じですか?
4月の入学したての頃は、大学の授業についていけるか不安でした。実際、最初はうまくいかず、単位を一つ落としかけ、別の授業もあと1回休んだら不合格という状況で、5分前に起きてキャンパスを走ったこともあります。6月からアルバイトを始め、シフトを入れすぎて丸1ヶ月、休みなく働きました。「どんな気持ちで日々を過ごしていますか?」と聞かれたら、今はけっこう楽しめていると思います。別府というこの地域だったり、大分という土地そのものを、今の自分なりにすごく楽しもうという気持ちでいますし、
この4年間で地域をいろいろ知る中で、自分自身とも向き合っていけたらなと。
そういうワクワク感が今はあります。

ただ一方で、大学という場にいるからこそやらなきゃいけないこともたくさんあるので、
自分の好奇心とのバランスの取り方は難しいところです。
「学び」と「自分が今やりたいこと」、その両方をどうやって両立させていくか、今まさに模索している感じですね。

――なるほどー。今の生き方を端的に表す言葉とかありますか?
ご縁をいかに大事にするかだなって思っていて、そもそも人生自体がご縁だと僕は思うんですけど、本当に、この積み上げてきたもののご縁がすごく巡っているなっていう感覚があります。映画も結局、ラジオっていう、ずっと自分が続けてきたものからのご縁だし。

大学では共同論文を書く機会があって、そのとき自分の興味関心のテーマに沿って取り組みます。そこで僕は今回、温泉班に入ったんですけど、そこで出会ったリーダーに、自分が農業に興味があるんだって話したら、リーダーが知っている教授を通して、3、4年生の先輩で地元の棚田の保全に関わっている人につないでもらったり。また、大学でたまたま見かけた「田んぼの田植えやりませんか?」という呼びかけの農場が、実は高校時代の先輩の農場だったり。今働いているラーメン屋の店長も、実は京都出身で結婚を機に別府に来て、地元が近いというご縁で採用していただいたんです。そういうご縁がつながると、もっと頑張ろうと思えます。だから、今たぶんそんなに休まなくても大丈夫なのは、やっぱりそのご縁やつながりを感じられているからだろうなと思います。

それは今の自分の生き方であり、これからも大事にしていきたいところです。

「こどもの森との出会い」

――こどもの森はどうやって見つけたの?
自分に合いそうな学校を探していました。母親の実家が福井県なんですが、福井に「きのくに子どもの村学園」の「かつやま子どもの村中学校」があって。で、和歌山にも「きのくに子どもの村中学校」もあって。両方とも中学部からの受け入れはしてないと。で、たまたま両方の学校のバナーにあったコクレオの森を小学校5年生の時に知って、学校見学に行ったんですよね。
学校見学行った時にはもう明らかにみんな楽しそうだなみたいな感触を持ちつつ、そのまま記憶の奥にしまってて。もう一回、6年でこどもの森に見学しに行ってみるかっていうところで、体験入学に実際に行って、すごく面白かったです。小学部3日間で中学部1週間、合計9日間ぐらい体験して、これは面白いなと思って、面接を受けて、こどもの森に入った感じです。

――3年間のこどもの森で、印象に残っていることとか、日常のエピソードとかイベントとかで覚えていることってありますか?
やっぱり中学1年の時に韓国に行けたのは、一番ありがたかったかなと思います。当時たしか、朴槿恵(パク・クネ)さんから文在寅(ムン・ジェイン)さんに大統領が変わって、慰安婦や徴用工の問題が盛んに議論されていた時期に韓国に行かせてもらいました。地元の学校の寮に泊まりながら、その現地の中高生たちと、通訳を挟んで日韓関係について話し合う機会もありました。外から見た日本に触れることの面白さや、お互いがそれぞれの国の思想を学んできているからこそのギャップ、つまり韓国から見た日本と、日本から見た韓国の違いが非常に大きくて、その時、なんというか肌を通じてそれが伝わってきたように感じて、やっぱりすごく良い経験でした。

 

――ほかには何かこどもの森の思い出はありますか?
やっぱりこどもの森の集会は(思い出として)大きいなと感じます。本当に納得するまで絶対に話し合い続けるという。やっぱりそういう柔軟性は、高校に行くと失われていきました。自分も含めて周りもそんな柔軟性がなくて、とりあえずタイパ、タイパみたいな。中身のないタイムパフォーマンスがすごく社会に流れているなと感じます。こどもの森は時間をかけまくった結果、「結局それで全然よかった」というところにたどり着く。ある意味、それ自体がタイムパフォーマンスなんじゃないかなと思うんです。ちゃんと話し合ったからこそ、お互いに納得できた感覚は絶対に持てますし。それはすごく素敵なことだと思っています。やっぱりあれがあの場であったからこそ、僕は話し合いへの耐性がつきました。
また、頼れる大人が多かったので、スタッフの方々といろいろ話す機会も多く、あの時期の僕たちにとっては本当にありがたかったなと思います。

――こどもの森の経験って、今の自分にどんな影響を与えてると思う?
自分のパーソナリティを、ちゃんと本当の意味で受け入れてもらった場所。たぶん、今までこどもの森以外にないんじゃないのかなと思います。話し合いでも、お互いにめちゃめちゃ主張が激しい人もいれば、めちゃめちゃ聞いて見ている人もいて、その落差があるからこその良さもあって、それぞれの位置から見たいろいろなことも、話しているうちに出てくるんです。ただ、どうしても関係性がすごく狭くなってしまうというのも、一つの特徴かなと思います。あと、僕は中学3年の時にクラウドファンディングをやりました。たぶん、学校で初めてクラファンをやったのは僕じゃないかな。四国一周の旅を卒業プロジェクトとして企画しました。その時に強く感じたのが、「物事を一方向から見てはいけない」ということでした。

(クラファンを)やりたいという気持ちはすごくあったけど、その一方でスタッフや学校側には懸念もありました。お金を人からいただくことの重みや、それを責任をもって最後までやりきれるのか、当時はコロナ禍で緊急事態宣言も出ていて、世間的にも旅に出るのはどうなんだという意見も当然あって。スタッフ会議で何度も話題に上がり、結果として「学校としては応援できない」という判断になりました。だから僕は「個人としてやります」と決めて、ビラを作って配ったり、Twitterやインスタ、YouTubeで情報発信したりして、なんとか資金を集めました。最終的にクラファンは達成できましたが、そこに至るまでが本当にいろんな学びの連続でした。旅の中でも、たまたま自転車がパンクして呼んだロードサービスのおじさんが、実は東北から震災をきっかけに四国に移住してきた人で、「四国が好きでね」といろいろ話を聞かせてくれました。そんなふうに視点を変えると新しい出会いや景色が見えてくる。それが旅の醍醐味だし、クラファンを通じて気づいた面白さでもありました。

また、こどもの森で出会ったご縁が、クラファンを通じてすごく広がっていったのも印象的でした。保護者の方が座談会を開いてくれたり、その場でいろんな人と話したり。
やっぱり人と人とのつながりが、僕にとっての支えでした。

クラファンをやったのは僕だけど、それぞれの立場から応援してくれる人がいて、
意見は分かれても、ちゃんと向き合ってくれました。
そういう大人たちがいる環境だったからこそ、僕は挑戦できたのだと思います。

やっぱり、「一方向から見るな」というのは、あの経験を通して心に刻まれたことです。

「これからのこと」

――今、よりなりくんが大事にしてることってどんなことですか?
今、一番大事にしているのは、「感謝すること」だなと思っています。たとえば、労働に対してお金が発生することのありがたさ。働かせてもらえること自体がまずありがたいし、今、大学生として学べているのも、親が学費を出してくれているからこそです。そうやって支えてくれている人たちの存在があって、今、自分はここにいられるのだと感じます。

それに、今大分に来て、自分から発信してつながることができた人たちとの出会いも、すごく貴重だと思っています。でもそれは、もともと高校時代に通っていた農業高校で感じた人とのつながりの大切さという原体験があるからこそできたことでもあります。

だから、これまで選んできた道のおかげで、自分を語れるエピソードがたくさんあるということ自体が、とてもありがたいことだと思います。

――これからの人生、どんなふうに自分の人生をデザインしていきたいですか

もうこっち(大分)に来て3ヶ月になりますが、温泉にも30か所以上、40回以上は入っていて、地域に根付いた暮らしをするという意味では、今が一番それを実感できているのかなと思います。また、地域の方たちと出会うこともあり、棚田の保全についてはまだしっかり理解できていませんが、その一歩として、今年の夏祭りで地域のおじいちゃんたちと一緒にボランティアをさせてもらいました。地域にコミットして、自分が何をできるかをこれから大事にしていきたいと思っています。その中で、今は木桶職人になりたいとか、将来的には農業に何かしら関わりたいという夢がありますが、その夢をもう一度、生活の中でしっかり再確認したり組み立て直したりする、そういう4年間にできたらいいなと思っています。もう少しこの地域のことを深く知る4年間にするのもありかなと思っています。

インタビューを終えて・・・

 農業高校から始まり、短編映画の制作、そして大学では学びと地域との関わりを深める日々。その歩みは決して一直線ではなく、むしろ試行錯誤と出会いの連続で紡がれてきたことが伝わってきました。だからこそ、「自分で選んで、自分の言葉で語る」というよりなりくんの姿勢に強い説得力を感じました。

特に印象的だったのは、「ご縁を大切に」「物事を一方向から見ない」という言葉です。こどもの森で育まれた多角的なまなざしや、じっくり話し合う姿勢が、今の彼の選択や人との関わり方の基盤になっているのだと感じました。

保護者として、子どもの進路やこれからの人生に不安を覚えることもありますが、こうして卒業生の歩みを知ることで、「自分の道は、自分で探していいんだ」と背中を押されたような気がします。どんな道を選んでも、自分の意思で進んでいける人に育ってくれたら――そんな願いをあらためて持たせていただいたインタビューでした。(こどもの森小学部保護者 中泉あゆみ)