【卒業生インタビュー⑰】「違和感」を大切に、行動し続ける。NICUで命と向き合う助産師ふうこさん

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こどもの森ですごした人たちは今・・・

こどもの森ですごした人たちは今・・・ こどもの森卒業生インタビュープロジェクト第17弾は、現在、助産師として働かれているふうこさんにお話を伺いました。

*本記事は、卒業生の語りをなるべく忠実に伝えることを大切にしています。そのため、成長の途上にある姿や、まだ言葉になりきらない思いも含めて、等身大の今をそのまま受け止めながら記録しています。

ふうこさんプロフィー

  • 1999年生まれ、26歳 社会人(2025年12月現在)
  • こどもの森在籍期間:小4〜小6(2009-2012年)
  • 今の自分の生き方を表す言葉:「違和感を大切に。心の赴くままに歩む」

「みんな同じ」への疑問から、こどもの森へ

ーーまずは、こどもの森に入学した経緯を教えてもらえますか?

私は小学4年生の時にこどもの森に入りました。もともと母が学校関係者だったこともあり、こどもの森(当時はわくわく子ども学校)のことは知っていたんです。でも、小1の時は「幼稚園の友達と一緒がいい」と思って公立の小学校へ進みました。 ただ、そこで過ごすうちにすごく「違和感」を感じるようになって。例えば、運動会の絵を描く時に、本当はいろんな場面があるはずなのに、みんな綱引きの絵を描くとか。算数が苦手なんですが、できなかったら掃除の時間まで居残りで特訓させられたりとか……。なんか、数字でその人のことを評価されたりとか、個性を尊重されない環境だなっていうのを、小学生3年生くらいの時にすごくモヤモヤして。 学校に行きたくなくて、ストーブで体温計を温めて熱があるフリをして休んだりもしていました(笑)。こどもの森はずっと身近な存在だったというのはあるんですけど、この機会に転校してみようかなと思って、4年生からこどもの森に行くことになりました。

ーーこどもの森での学校生活はどうでしたか?

すごく楽しかったです。プロジェクトとか、全校集会とかもすごく楽しかった。あと、小学校の高学年ぐらいから演劇がすごく好きで、学校で劇団をみんなで作って、お祭とか卒業式とかの度に定期公演をしていました。「劇団アニマルズ」って言うんですけど。当時は全校生徒が10人ちょっとしかいなかったんですが、ほぼ全員が参加して、お話も脚本も衣装も、全部自分たちで決めてやってました。

助産師への道、そして生死を彷徨った経験

ーーこどもの森のことは後でももう少しお伺いしたいですが、ここでは卒業した後のことを聞かせてもらってもいいですか?

中学はもう公立は合わないと思っていたので、コリア国際学園というインターナショナルスクールに通って、中高そこで過ごし、大学はAO入試で慶應義塾大学に入りました。で、コリア国際の時に一年間フィジーに留学したんですけど、そこで助産師になろうって思うきっかけがありました。で、看護大学に入りたいとなって、国際的にも強かった慶應に進学して。でも、そこでは助産師にはなれなかったので、岡山大学の大学院に進学し、二年かけて助産師の免許を取得して、今大阪で助産師をしているっていう感じになります。

ーーコリア国際(中高)はどうでしたか?

総じて楽しかったですが、でも、やっぱりこどもの森で過ごした3年間がある分、初めは馴染むのが大変でした。自由な校風とはいえ、制服もあるしチャイムもあるし、先輩後輩の上下関係もあって、「先輩に敬語使えよ」とか言われたりとか。テストの受け方も分からなくて、最初は赤点ギリギリでした(笑)。 でも、周りの友達や先生が「こどもの森の教育」を受けてきたことを知って、面白がってくれて。だんだん、同級生とかが「それ、どんな教育なん?一回行ってみたいわー」って興味を持ってくれて、実際に高校のときに来てくれた友人もいました。私自身もだんだん慣れていく部分もあるし、そういう感じで、周りに助けられたというか、周りもすごく知ろうとしてくれたし、私もだんだん馴染んでいったみたいな感じでした。

ーーそうなんですね。戸惑いながらも、ふうこさんもいろいろトライするし、周りも理解してくれる環境があったんですね。そこから大学に進学されて、その先、助産師を目指されることになった道のりをお聞きしてもいいですか?

高校1年生の時、フィジーに1年間留学したことがきっかけになりました。 実はその頃、私は「映画監督になりたい」と思っていたんですが、現地ですごく仲良くなった友人が、10代で予期せぬ妊娠をして高校を退学することになってしまって。 好きなパートナーとの子どもではあったけれど、その子は「将来は先生になりたい」と言っていたのに、その夢が途絶えてしまって。このことを身近に感じた時に、妊娠・出産って女性の人生にとって大きな影響を与えるんだなって、すごく自分ごととして実感して。途上国では若くしてお母さんになったり、強制的に結婚させられたり、医療環境が整わず命を落とすこともある。そういった話をきいたりして、「途上国で活躍できるような助産師になりたい」と強く思うようになりました。

ーーそれで、先ほど国際的に強かった慶應大学に進学されたとおっしゃっていたんですね。

はい、慶應時代は国際的に活躍する助産師になりたいと強く思っていたので、大学1年の夏休みに、ガーナのクリニックへ6週間のインターンシップに行きました。お産の現場にも立ち会わせてもらったりして、環境が整っていない中での医療現場を経験させてもらい、帰国して「頑張るぞ!」となっていたときに、すごく大きな病気をして。ガーナで感染症にかかってしまって、帰国してから原因不明の高熱と下痢が続きました。日本の大きな病院で検査をしても何が原因かわからなくて、検査しながら学校に通うみたいな日々を過ごしていたんですが、ある日、部屋で一人で倒れてしまい、緊急手術・入院となりました。 脳梗塞を起こしていて、生死を彷徨う経験をしました。左半身に麻痺が残るかもしれないと言われて、ものすごく大変だったんですけど、そこから1年間休学し、リハビリ生活を送ったんですが、今は回復して、不自由なく生活できるまで回復しました。

ーーそうなんですね…。その時の経験もふうこさんにものすごく影響しているんですね。

そうですね。ちょっと話が変わるんですけど、高校生の時にマイノリティの人たちを撮影して開催した写真展がすごく評価されて、AO入試で大学に入って、それでガーナに行くとかって言って、怖いもの知らずでした。でも、その大学生の時に脳梗塞になって、お茶碗も持てないし、みかんの皮も剥けない。昨日まで当たり前のようにできていたことができない現実と向き合いました。私が今までしてきたことがすごく評価されて、自分でも自分の価値を感じていた中で、初めて「できない」という経験をして、それでも自分の価値を信じて、可能性を信じて前に進んでいくっていうことがすごく難しいんだなっていうことを、病気になったこと、麻痺になったことによって、初めて自分ごととして痛感して。そういう意味で、すごく自分自身と向き合った一年間でもありました。なんか、病気になる前までは何かできていることとか、何かを成し遂げることに対して私自身、価値を見出していたんですけど、この経験を通して、どん底で目の前が真っ暗の中で、それでも自分の価値を信じて前を向いて歩んでいくということが、すごく難しくて価値のあることなんだなって。私はそういう人間になりたいなとすごく思いました。

ーーいろんな意味で本当に大きな経験だったんですね。

休学期間の一年間をどうしようかと思って、視覚支援学校で英語を教えたりボランティアをしたり、難病を抱えながら生きる人など色んな人に会いました。私も結構しんどい時期だったんですけど、その中で、今まで出会わなかったような、目の見えない子どもたちとか、難病を抱えながら生きる人とか、そういう人とたくさん交わらせてもらう経験があって。同じ「病気」と言う境遇の中でも、前を向いて懸命に生きる姿からたくさんの学びと大切な気づきをもらいました。

「弱さ」を受け入れる強さ。NICUの現場で思うこと

ーーそこから岡山の大学院に進まれて、助産師になられたんですね。岡山ではどうでしたか?

高校生のときに開催した写真展で、ハンセン病の回復者の方と出会って、その人の写真を撮らせてもらったご縁があって。写真展が終わってからもずっと交流があったのですが、その方が「自分は五体満足ではないけれど、自分の弱さを受け入れた時に初めて自分らしくいられた」と仰っていて。それが私にはすごく衝撃的で、自分の弱さを受け入れるってなんだろうと思って。自分が病気になった時も、自分の弱さを受け入れるって何なんだろう、自分には今それができないなって思いました。ハンセン病回復者の人って、それを受け入れてこられた方もいて、絵を描いたり、いろんな活動をしている作家さんとかいらっしゃる中で、逆境の中でも自分らしさを大切にして生きてこられた人たちのことをもっと知ってみたいと思い、勉強していました。それもあって、ハンセン病療養所が近くにある岡山大学の大学院に進むことを決めました。 あと、大学院では包括的性教育の研究をしている先生がいらっしゃったのも大きかったですね。で、大学生の頃からいろんな交流があった中で、多くの人にハンセン病問題を知ってもらえないかなと思って、こどもの森の卒業生のはるかちゃん(–> はるかさんの卒業生インタビュー記事はこちら https://cokreono-mori.com/blog/?p=25201)JIWA-JIWAっていう社会課題のスタディツアーをする団体とコラボして、岡山でスタディツアーをやったりとかもしてました。

ーー岡山でもいろいろされていたんですね。さっきの包括的性教育の話も聞いていいですか?

ピルコン(https://pilcon.org/)っていう団体が日本ではメインでやってるんですけれど、そこのフェロー(ピルコンの活動に参画するユースメンバー)になることができまして、大学生の時から中学校とか高校で性教育をするっていうのをしていたんです。助産師って性教育もするんですけど、もっと助産師が包括的性教育をできるようになったらいいなと思って。それで、岡山大学大学院で研究されている先生にご指導いただきながら勉強しました。

ーーそうなんですね。この二年間も色濃くいろんな学びをされたんですね。そういえば、こどもの森でも一度ピルコンさんに来ていただきましたね。

ーー今は助産師として、どんな日々を過ごしていますか?

いやー、本当に毎日大変です。毎日大変で精一杯の日々って感じなんですけれど。今はお産を取っているのではなくて、小さく生まれてきた赤ちゃん、病気の赤ちゃんが入院してるNICU(新生児集中治療室)で助産師として日々お母さんやご両親と接したり、赤ちゃんのお世話をしたりしています。

ーーそんな中で、ふうこさんはどんな風に感じて、どんな思いでお仕事をされていますか?

「お産をとる」だけが助産師の仕事ではないなと思っていて。 すごい欲張りなんですけど、お母さんはもちろんなんですが、早く生まれた赤ちゃんとか、そういう赤ちゃんもちゃんと診られる助産師でありたいなって。 お産で言ったら、「お母さんの産む力と赤ちゃんの生まれてくる力を最大限に引き出せる助産師」とか、いろいろ考えたんですけど…… 今は、赤ちゃんをちゃんと診れて、「大丈夫だよ」ってちゃんと言える助産師になりたい。そう思って働いているんですけど……現実は、いっぱいいっぱいでございます(笑)。

ーーすごく忙しいんですね。

最近は仕事量も増えてきて。 もともとは「海外で活躍する助産師になりたい」というのがメインの夢としてあって、いつかは……という思いはずっとあるんですが、日々の業務が忙しすぎて、そことはちょっと今、遠ざかってしまっているというか、準備ができているわけではないんですけど。 それでも、「今、自分にできることをやっていきたい」と思っていて。ピルコンがやっている若者がアクセスしやすい「ユースクリニック」っていうスウェーデン発祥の仕組みなんですけど、それを広めていこうという活動のプロジェクトメンバーに入れてもらって活動しています。スウェーデンには270カ所ぐらいあって、若者が気軽に性の悩みを相談できたり、医療者が常駐していて気軽に相談できたりするんですが、 日本にもそういう「若者にもっと優しく、アクセスしやすいクリニック」があることがすごく大切だよね、広めていこうよっていう。忙しい合間でも、少しでも社会への貢献ができたらなと思って活動しています。

ーーそういった活動も含めて、子どもや若者に対するふうこさんならではの視点を感じます。

ありがとうございます。NICUで働いていると、本当にいろんなお母さんに出会うんです。 意図しない妊娠だったけれど授かったお子さんで、親御さんに養育の意思がないから乳児院に行く予定の子とか。 一方で、ダウン症であっても、毎日お父さんとお母さんが面会に来られて、愛されて楽しそうに育児の練習をしているご家族とか。 いろんな人生があるんだなっていうことを、身をもって知る日々です。やっぱり、すべてがうまくいくわけではないんですけど…妊娠する前からの性教育というか、その知識があるのとないのとでは、全然違ってくるのかなって。 でも、すごく難しいんですよ。お母さんご自身に発達障害があったり、いろんな事情があるので。学校教育でも性教育に充てられる授業時間が限られていますし、一回聞いただけで自分のものにするのは難しい。 それでも、少しでも「妊娠したいのか、したくないのか」を考える機会があったり、「したくないならどうしたらいいのか」、避妊具の種類を少しでも多く知っているとか。そういうことが、すごい大切なんだろうなって思いながら働いています。

原点にある、こどもの森での「プロジェクト」と「話し合い」

ーーこどもの森での3年間を振り返って、今の自分に影響を与えているなと思うことはありますか?

一番楽しかったのは「劇団アニマルズ」なんですけど、「プロジェクト」の時間がよかったですね。 自分に興味関心のあることを探究できる時間があって、「お菓子作りしてみたい」とか「木工でこんなの作ってみたい」とか、本当に些細なことでもいいんです。そういう自分の「やってみたい」を実践できる環境が、当たり前のようにあったこと。 それがすごく今の土台になっているなと思います。何かモヤモヤした時に考える力とか、それを実際に発信してみる力とか。 こどもの森では、普通にそのプロジェクトで作ったものとかをみんなの前で発表する機会とかもあるじゃないですか。そういうので発信する力とかまとめる力とか、そういう機会が当たり前にあったということが今の自分の土台になっていて、当時は「お菓子作りたい」とかっていう単純なことだったんですけど、それが後々になって、マイノリティの人たちの写真展をやってみたり、もっと性教育の知識があった方がいいよなって思って「ピルコン」に入ったり、自分の思いを行動に移す力がついたかなって思います。

ーーもう一つ、全校集会も印象に残っていると仰っていましたね。

こどもの森って、多数決をしないじゃないですか。それがすごく貴重な経験だったなと思っていて。 誰か一人でも「嫌だ」っていう人がいたら、その人が納得できるように、みんなで折り合いをつけながら答えを作っていかないといけない。自分も大切にするし、人も大切にする。「アサーティブ・コミュニケーション」だったなってすごく思うんです。

ーー具体的に覚えているエピソードはありますか?

 例えば、「学校にゲームを持っていきたい」っていう議題が出たことがあって。でも、持ってない子からしたら「自分と一緒に遊んでくれる時間が少なくなっちゃうから嫌だ、持ってきてほしくない」っていう意見が出たりして。 そこで「持ってきちゃダメ」って決めるんじゃなくて、最終的な折り合いとして「じゃあ、この週とこの週は持ってきてもいいことにしよう」みたいに決まったんです。 すごく課題ではあるんですけど、そういう「折り合いをつけながらみんなが納得できる方法を話す」っていう時間が楽しかったなって。

ーー多数決しないことで、自分の意見も他人の意見をちゃんと聞いて折り合いをつけていくっていうのが日常にあったんですね。そういう解決策があるっていうことをふうこさんは知っているというのがすごく大事なんやなあと思います。

でも、そういう解決策があるっていうのを知っているからこそ、今、なにかで「多数決で決めよう」とかってなると、すごくモヤモヤしたりしますけどね(笑)

ーーそういう人達とまたこう折り合いをつけていくっていうのが、これからの人生も起こってくるんでしょうね。

ーー最後に、これからどんな風に人生をデザインしていきたいですか?

難しいですね……。 でも、今までもそうだったように、すごく「違和感」を大切にして生きていきたいです。 これまでも、違和感があるたびにそれを発信して、自分なりのアクションをしてきました。これからも、自分の中で「なんか違うな」という違和感があったら、それに蓋をせずに、自分なりのアクションを起こしていきたい。そう思います。

ーー今日はいろいろと聞かせていただいて、本当にありがとうございました。

インタビューを終えて・・・

今回は、今、助産師として日々奮闘されているふうこさんにお話を伺いました。

小学生時代の「違和感」から始まり、海外での経験、そしてご自身の大病、様々な出来事があった道のりをふうこさんは率直に語ってくださいました。

お話を聞いていて、ふうこさんは日常の中にある色んな「モヤモヤ」や「想い」をそのままにせず、一つひとつ行動に移すことで、少しずつ、人生を前に進めてきた方なんだなと感じました。

今もすごくがんばっているふうこさんに、安易に「がんばって」とは言えませんが、これからもふうこさんなりの歩みを進めていってもらえたらなと思います。