認定NPO法人コクレオの森

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エッセイ

民主的な学校づくり ―市民が創る学校のカタチ―

2018/08/31

1.学校を創りたいと思ったわけ

 小学3年生のとき、従姉妹の家でたまたま見つけた1冊の本。それが、「窓ぎわのトットちゃん」だった。40人近い教室で黒板の方を向いて机に座り、教科書を使って、みんなで同じ内容を先生が言うことに従って学ぶのが当たり前だと思っていた私は、とても大きな衝撃を受けると同時に、「私もこういう教育を受けたい!」と強く思うようになっていった。
 残念ながら、私がトットちゃんのような教育を受ける機会には恵まれなかったが、「人が人として生きる」ことに関心をもち、大学で教育学を学ぶことになった。教育学を学ぶ中で、エミールに始まり、シュタイナーやモッテッソーリ、フレネなど、次第に子どもの主体性を尊重する教育や子どもの権利条約に興味をもつようになっていった。

 紆余曲折あり、大学卒業後公立小学校の教員になったが、子どもの興味関心ではなく学年で足並みを揃えて、教科書を教えていく「指導」というスタイルに違和感を抱き、別の教育のカタチを求めて3年務めた後、退職。再び、大学院にて教育学について学んでいるときに、アメリカのチャータースクールの校長の講演会に参加したことがきっかけで、現在の仲間と出会い、市民による学校づくりをスタートさせることになった。
 「学校づくり」に集まってきた仲間たちの動機はさまざまだった。無気力な大学生や高校生を目の当たりにして日本の教育に疑問をもった人、自分の子どもが不登校だった人、自分自身が学校生活の中で疑問をいだいていた人などなど。そんな仲間たちと共に、月に1回定例会を開いて、教育内容や教育方法の検討、設立資金の準備、生徒募集の方法など、いろんなことを話し合い準備していった。

 「学校を創ろう!」という思いに集まったまではよかったが、実際に教育理念を掲げ、具体的な教育方法を決めるのは、簡単なことではなかった。まずは、先駆事例を検討することになり、アメリカのサドベリーバレースクール、シュタイナー教育などを検討した。議論を重ねる中で、サドベリー教育については、「自由すぎる気がする、もっと大人の価値観や考えも伝えてもいいんじゃないか」ということになり、シュタイナー教育については、「もっと自由でもいい気がする、大人の価値観や考えを押し付けすぎているんじゃないか」ということになっていった。他にモデルになる教育方法をさがしていたときに、フレネ教育と出会った。子どもたちの興味関心も、市民性や共同体感覚を重視している点が、私たちの感覚に一番合う気がして、フレネ教育をベースに教育方法やカリキュラムづくりを進めていった。

2.市民の手で学校を創ろう(創立期2004年~2008年)

 さまざまな壁がありながらも一つひとつ乗り越え、ようやく1軒の民家を借り、7人の子どもたちを迎えて、2004年4月、市民が立ち上げた新しいタイプの学校「わくわく子ども学校」がスタートした。今から振り返ると、2004年度から2008年度までの5年間は、創立期とも言える。「子どもを学びの主人公に」という理念を掲げ、フレネ教育をベースにオリジナルの方法を取り入れながら、教育方法やカリキュラムを構築していった。

 この時期のカリキュラムで特筆すべきこととして、3つのことを挙げることができる。1つは、全校集会[1]での決議方法。全校集会では、さまざまなことを話し合って決めていくが、民主的に物事を決めていくときのプロセスとして重要だと判断したため、多数決で決めるのではなく、「勝負なし法[2]」と取り入れることにした。2つ目は、「表現」が「ことば・かず」に変化したこと。開校当初は、基礎学習という概念に芸術分野も含めて「表現」と位置付けていたが、いわゆる「読み書き計算」の部分を保障しなければ、他の活動の幅が広がりにくいという気づきから、「ことば・かず」に絞ることになった。3つ目は、「選択プログラム」が途中からできたこと。「プロジェクト[3]」の時間ばかりが続くと、そのうち何をやったらいいのかがわからないという声があがるようになり、程よい選択肢があった方が、子どもたちの学びの質が深まることに気づき、スタッフ[4]がファシリテーターとなって進めていく学習(音楽、野外活動、キッチンなど)が始まることになった。

 この時期は、校舎が一軒家の民家だったこともあり、自分たちも積極的にかかわろうという気持ちを保護者の方ももっていて、協力的で自立度の高い人が多く、スタッフとの関係も親密だった。また、母親の人が中心になって学校を選んだり、学校に関わったりするケースがほとんどだった。

 



[1]全校の生徒とスタッフ(教員)が集まり、学校のルールや行事について話し合うミーティング。週に1回開催される。

[2] トマス・ゴードンが親業で提唱した方法。問題を解決するために出された案の中から、誰もが反対しなかったものを選んでいく。

[3] 子ども自身が、自分の興味関心に基づいて決めたことをやる時間。

[4] 箕面こどもの森学園では(わくわく子ども学校でも)の教師のことを「スタッフ」と呼んでいる。

3.つながりをつくろう(転換期2009年~2012年)

 次第に民家の校舎が手狭になったため、将来のことを考えて、新校舎を建設に移転することになった。何度もいろんな場所を見に行きようやく場所を決め、今まで集めたことのない額の寄付金を集め、立ち上げのときの何倍ものエネルギーとマンパワーで、校舎を建設し移転することができた。念願の広い校舎を手にいれた喜びは大きかったが、一方で「スペース(空間・広がり)」ができたことによる変化が起きていった。

 教室空間が広がったため、教室環境を整備し教育の質の向上をはかることは当然のことであったが、想定していなかったことが2つ浮上してきた。1つ目は、私たち自身が外部とつながりを意識し出したことである。広い空間を手に入れた私たちは、そこで過ごしていくうちに、自分たちの学校づくりを理解してもらうために「この空間に人を呼ぶ」という活動を徐々に始めていった。

2つ目は、消費者感覚の保護者が増えたことである。民家のときは、民家であっても価値を理解して選択できる人が保護者だったが、新校舎を建設したことで「民家の学校は選ばないけど、この校舎だから選んだ」という保護者層が一定数入学するようになり、その層には、どちらかと言えば、消費者感覚で入学した人が存在するようになっていった。

 スペースができたことから、私たちは、市民が創る新しいタイプの学校の意義を広く理解してもらおうとさまざまな人や団体とのつながりを求め、いろんなイベントを企画運営するようになり、つながりの意味やつながりから生まれるものは何かを深く考え始め、「学校を学びの共同体に」という教育理念を掲げるようになっていった。その一方で、共同体を一緒に構成していくはずの保護者の中に消費者的な人たちが現れるようになったことが、私たちが自分たち自身のあり方を問い直すきっかけとなっていった。

 「私たちは、なぜ、何のために市民で学校を立ち上げたのか。これからどこへ向かいたいのか」仲間たちと何度も何度も話し合い、自分たちを見つめ続けた。今から考えると、この時期は、私たちがあり方の土台を固めていった時期だったともいえる。

4.市民を育もう(構築期2013年~2015年)

 「なぜ、何のために市民で学校を立ち上げたのか。これからどこへ向かいたいのか」問い続けた結果、たどりついた答えは、「民主的に生きる市民を育む」というものだった。その答えに確信を得た私たちは、今までの教育実践と思いをカタチにすべく書籍にまとめ出版[5]することにした。

 前の転換期では、イエナプラン教育の要素を多く取り入れて、「何をどうやって学ぶのか」という視点でカリキュラムや教育方法を考えてきたが、次第にアドラー心理学や7つの習慣[6]などを取り入れ、「自分をみつめ、自分自身と向き合うためにはどうすればいいのか」という視点で考えるようになっていった。こうして積み重ねてきた教育実践は、ESDに合致することが認められ、スタッフがESD世界会議[7]ユースカンファレンスの日本代表に選ばれ、2015年には、ユネスコスクールに認定されることとなった。また、市民による学校づくりへの共感の輪も少しずつ広がってきて、同年に認定NPO法人[8]にも認められるようになっていった。

 こうした中で、多様な教育が認められる社会を創りたいとも考えるようになり、全国規模のネットワークにも加盟し、法案づくりにも積極的にかかわるようになっていった。保護者にも本質を求めて生きている人が増えてきて、消費者感覚で入学する保護者はいなくなっていくと同時に、父親の人が学校選びや学校運営に積極的に関わることが増えていった。そして、保護者の側から「箕面こどもの森学園の中学部で子どもを学ばせたい」という要望が高まり、保護者とスタッフが一緒になって、「学ぶと生きるをデザインする」というコンセプトの中学部を立ち上げるまでになっていった。



[5]「こんな学校あったらいいな~小さな学校の大きな挑戦~」辻正矩他著、築地書館、2013年。

[7]スティーブン・R・コヴィーがアメリカ建国以来、成功者に関する200年分の文献を緻密に調査・分析し、導き出した考え方。

[7]2014年11月に、国連教育科学文化機関(ユネスコ)と日本政府の共催により、愛知県名古屋市及び岡山市において開催された。

[8]NPO法人のうち、その運営組織及び事 業活動が適正であって公益の増進に資するものにつき一定の基準に適合したもの。認定NPO法人になると、その法人へ寄附をした市民や企業等の寄附者が、税制上優遇されたり、認定NPO法人自身が納める法人税が優遇されたりする。

5.未来を創ろう(発展期2016年~2017年)

 この時期になると、「持続可能な社会における学校のあり方・教育」そのものを追求するとともに、さまざまなイベントも「学校を広く知ってもらうため」というよりは、「持続可能な社会を創るため」に行うようになっていった。2016年には、ESD重点校(サスティナブルスクール)[9]に選定され、スタッフが海外で開催される国際会議[10]や海外視察にも参加できるようになった。そんな中、私たちは、学校を創ることは目的ではなく、「持続可能な社会を創るための手段」だと考えるようになっていき、つながりのある外部団体・組織も同じように持続可能な社会を目指すところが増えていった。

 転換期以降、「なぜ、何のために市民で学校を立ち上げたのか。これからどこへ向かいたいのか」を問い続けてきた。その結果、今見えてきていることは、ミライの学校のカタチである。その学校では、小中学生だけでなく、小さい子からお年寄りまで多世代で多様な人が学んでいる。学校の学びと人々の生活が有機的につながっていて、人々が営む持続可能な暮らしの真ん中に学校があり、学校はそのプラットフォームになっている。この学校からは、民主的に生きる市民が育まれ、一人ひとりがそれぞれの場所で民主的な場を創っていくことで、世界全体が少しずつ持続可能な世界に向かっている。今後はそんな未来を見据えて、自分たちができることを一歩一歩積み重ねていきたいと思う。


[9]平成28年度日本/ユネスコパートナーシップ事業において、よりESDの実践力を高め、教育を通じて持続可能な未来をつくることを目指して、全国で24校の実践的な取組を行う意欲のある学校が「サステイナブルスクール」として選定された。

[10]「平和と持続発展のためのユネスコ・ウィーク:UNESCO Week for Peace and Sustainable Development:The Role of Education」@カナダ(2017年3月)、「第5回ESDに関するアジア太平洋専門家会議及び第1回アジア太平洋国際コロキウム」@中国(2017年12月)

6.おわりに

 第69回関西教育学会シンポジウム「民主的な学校づくりと公教育 ―オルタナティブ教育の視点から問い直す―」にて発表した内容をまとめさせていただいた。以上のような経緯をたどり、市民の手でオルタナティブスクールを立ち上げ、教育実践を積み重ね運営を続けてきた。今後の課題としては、主に3つのことをあげることができる。1つは、教育の質をどう示すのかという点である。ESDを主軸におく教育が、子どもたちの主体性を育み持続可能な社会づくりに貢献することは、卒業生などの変化や活躍を見ても明らかなことである。今後、それを何らかの研究手法で証明することができれば、さらに説得力を増し、汎用性を高めることができると思われる。

 2つ目は、本学園のようなオルタナティブスクールが日本国内で認められるような法律の改定を目指すことである。「多様な学び保障法を実現する会[11]」に加盟し、一条校以外の学び場で学ぶ権利の保障を訴えてきた結果、教育機会確保法[12]が制定されたが、多様な学び場で学ぶ権利を保障するには不十分な内容にとどまった。今後は法律の見直しなどを含め、多様な学び場で学ぶ権利が保障されるような法整備を目指していきたいと思う。

 3つ目は、学校運営を持続可能なものにしていくことである。持続可能な社会を目指し、今日まで真摯に教育実践や活動を積み重ねたが、その組織運営そのものが持続可能とはいいがたい状況がまだまだ続いている。2つ目の課題とも通じるが、思いをもった市民が学校を創ることができ、そしてその学校が持続して続いていくためには、さまざまな課題が山積みではある。険しい道のりではあるが、さまざまな人とつながりながら、私たちが描くミライの学校をカタチづくっていこうと思う。

(関西教育学会年報 通巻42号掲載)



[11]旧:「(仮称)オルタナティブ教育法」を実現する会。既存の学校に通う以外の、多様な子どもの学びの在り方、育ち方が公的に認められることを目指す会。2012年7月8日設立。

[12]不登校の子供に、学校外での多様な学びの場を提供することを目的とした法律。正式名称は「義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律」(平成28年法律第105号)

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