鈴木留美子さん。
「共に学ぶ」教育のとりくみで有名な豊中市在住。
知的「障害」のある30代男性の母親。
かつて、息子さんは地域の小中学校へ通学。
養護学級(現・支援学級)ではなく、普通学級にて「障害」のないこどもたちと一緒に学んだ。
知的に「障害」があっても普通学級?
それって親のエゴじゃないの?
‘障害受容’できていないんじゃないの?
わけのわからない場所に置かれて、本人にとっては苦痛なんじゃないの?
本人に合った教育を受けた方が、本人にとってもいいことなんじゃないの?
「障害」のあるこどもが普通学校を選択すると、今もそういう声はあちこちで聞かれる。
鈴木さんの息子さんの就学当時はもっとそういう声があったのかもしれない。
ひょっとすると、「共に学ぶ」教育の土壌があった豊中では比較的自然だったのかもしれない。
いずれにしても、いろんな課題に向き合っていく学齢期であったことは想像に難くない。
そんな中、地域の学校の普通学級で、息子さんはいろいろなものをゲットしていった。
そんな中、地域の学校の普通学級で、息子さんはいろいろなものをゲットしていった。
友達の名札で文字を覚え始め、「分数」や「%」まで理解した。
友達の行動や普通学級の環境からいろいろなものを吸収していった。
何といっても、地域の同世代の友達との関係をつくることができた。
判断に迷うようなことがあった時、鈴木さんは、
『それは「命を大切にすること」かどうか、を指標に考えてみる
そうすると、自ずと答えは見えてくる』
とおっしゃっていた。
鈴木さんにとっては、「息子の命を大切にすること」の問いかけの先に、地域での「共に学ぶ」教育があったのかもしれない。
後半の熟議テーマは、
◇「障害のある人と共に学ぶこと」
◇「命を大切にすること」
の2本。
理想かもしれないけれど、やっぱり「共に学ぶ」は難しい。
「排除」の力がはたらいているかどうかがポイントではないか?
少なくとも今以上にもっと環境整備は必要なんじゃないか。
「命を大切にする」観点で、自殺と尊厳死はどう違うの?
各テーブルでさまざまな意見が出されていた。
でも、普段以上に各々の考え方を見つめ返しにくく、モヤモヤしている参加者もいたのでは・・・?
「インクルーシブ教育」と呼ばれるアプローチがある。
「障害」はもちろん、さまざまな違いのあるこどもたち同士が一緒に学べることを目指すもの。
「オルタナティブ教育」と呼ばれるアプローチがある。
硬直した公教育とは別の理念に基づいて、さまざまな学校で多様な学びを目指すもの。
僕は、この2つのいずれにもその魅力を感じ取っているけれど、この2つの‘関係’においてはまだ折り合いが見出せていない印象。
多様な人が参加できる場や社会を目指すのか、多様な選択肢の中からそれぞれが過ごせる場を見つけられる社会を目指すのか?
それらはアウフヘーベンの境地に達することができるのか?さらに第3の道が出現するのか?
第20回「教育カフェマラソン」で田村太郎さんがお話しされていた「ダイバーシティ(多様性)とは」を表したマトリクス(「すみわけ」ではなく「共生」)を思い起こす。
http://cafemarason.blog.fc2.com/blog-date-201405.html
http://kodomono-mori.com/cafemarason/videoarchives/tamura/
今回の熟議でも、時間は全然足らなかった。
「教育カフェマラソン」が100回に到達する頃には、何かが浮かび上がってくるのだろうか。
まだまだこれからも探求していきたいテーマだなぁ。 (にっしー)