第61回教育カフェ・マラソン~瓜生智子さん 浄土真宗本願寺派僧侶~


第61回教育カフェ・マラソン、話題提供者は瓜生智子さん(浄土真宗本願寺派僧侶)でした。

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「布袍を着ると緊張するんですよね。」

ということで、まずは参加者も全員耳を触って柔らかくし、リラックスするところから今回始まりました!耳と頭の柔らかさは連動するそうです。

 

「お坊さん」って何だろう?仏教がどんな風に社会に役立つかな?ということをやっているそうです。

活動としては愚痴を聞くグチコレ、東洋医療のこと、Yogaインストラクター。コンビニの数ほどあるお寺で健康を考えられると役に立つ。死について語るワークショップ、デザイナー、灯絵など、ということでした。

お坊さんって例えて言うなら「大地」のありがたさに気づかせる人なんじゃないか?

ある朝、僧侶の父が言った。「絶望からどうして人は立ちあがれるんだと思う?」「自分が頑張れるからやろ」「そやね、でも大地がないと踏ん張れんやろ」と。

大地がいつどんな時も支えてくれているんだと気づけば、悩んでるときも絶望した時も「あ、またがんばろ」って思えるんじゃないかな。それって当たり前すぎる。その反対は「有り難い」。あ、有り難かったんだなと気づけること。

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瓜生さんは、教育カフェマラソンの趣旨をしっかり読んでくれていて、その中の「子どもたちを豊かに育める社会」というワードを捉えてくれていました。

そこで、上記のようなことを踏まえて暮らしの中の豊かな教育について話したいと。

 

今回は「マンダラトーク」という手法で話をすることにしました。

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6つのテーマがかかれたプリントが参加者に渡されました。興味のある聞きたいテーマを参加者が選びます。そしてそれを選んだ理由を簡単に聞いてから話を聞いて、最後に簡単に感想も聞いて次のテーマにいくというものです。

 

ひとつめは「親も私も不完全だということの安心」。

父にもっと遊んでほしかった。でも父はいつもお経を読んでいた。なので小さいころ寂しい思いをしていた。祖父は365日中300日寺に説教をしに行く人だった。父が19の時、祖父はなくなった。ご遺体が家に帰ってきた時感じたことは「やっとどこにもいかずにいてくれる」だった。

父は、祖父の文字をお寺の説教のから見た時「あぁ、仏教に向かう背中を見せてくれてたんだな」完ぺきな父を求めていたけど、不完全なんだな、と感じた。

「他人が間違った事をしてもあんまり怒るな」by聖徳太子 人間は見奈不完全。問い続けることに意義があるのでは。

 

次のテーマは「だまされるな」。

ビートたけしさんの言葉。人間は何もなくていい。夢を持て、給料を稼がなきゃ、夫、妻としての役割、、それだけじゃ辛くなる。お寺という空間でだけは名前も性別もおいて、ただ自分がそこにいるということを認められたら。ただ生きている。

 

次のテーマは「納豆の賞味期限は「体に聞く」という教育」。

小さい時近くにいた「やまおばちゃん」の教訓。→臭って見て大丈夫なら大丈夫。「こうしなきゃいけない」と実感なしに進んでいくと、体の感じる力が落ちて行く気がする。身体は使い方を知ったら高機能。

顎の付け根を押すと唾液が出る。食前に押す→消化改善。食後→虫歯予防。そもそも体に備わっている。

治らなかった腰痛 終わらない通院。実は腰痛がひどかった。足の指に手の指を入れて足首を回すと腰痛が良くなる。足が硬くなると姿勢が全景になる。バランスを取ろうとして腰に負担がいく。足首を柔らかくするとよくなる。

身体には「良くなろう」とする機能が備わっている。痛みは体の症状。いいとか悪いとかじゃなくてそれをよく見ようとしてみること。

 

次のテーマ「見えない大地」

祖母との話。3歳の時に保育園に入ったがイヤすぎて3日で退園した。祖母はそれをうけいれて面倒を見てくれていた。足が悪かったのでベッドで寝ていた。面白い、死んだふりをして「へっへっへだまされたな」と笑っているようなおばあちゃん。

9歳の時亡くなった。「大成功や、みんなだまされとるよ」と身体をゆすったが起きなかった。初めて体験し田身近な人の死。ばあちゃんだったらなんていっとったやろうとよく考えた。「人生は思い通りにならん」と笑ってた。

生老病死という言葉がある。人生は思えば、生まれことも死ぬことも思い通りにいかない。ばあちゃんは「苦しい人生」を楽しんでいる姿を見せてくれていた。

えない大地とは、会えなくても目に見えなくても生前とは違う形で私にしっかり関わってくれている存在者<仏様>

根っこ、目に見えない存在、大地が支えてくれている。大地が豊かに育つと、子どもを豊かに育める社会というものが実現できるんじゃないかと思う。

 

参加者と話題提供者が相互にやり取りして話を進められる素敵な時間でした♪

 

ここで時間きたので熟議へ。

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テーマは「安心して学べる場所ってどんな場所だろう」「どのようにすればそんな場ができるのだろう」でした。

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熟議を経て、各グループからシェア!

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Aチーム:安心して学べる場→見える大地と見えない大地があること。自分もいつか安心したいという気持ちをもっているからそれを伝えていく。空気を読む必要のない場。

愛があれば安心できるか?こたえは出ていない。ここでだめならまた次の場所がある、という情報が入ってくる環境があれば。

 

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Cグループ:安心して学べるというより、安心して居られたら自然に学んで行ける。一人一人はもともと一緒のところから始まっている。寂しさ、結びつきたい、本当はみんな一緒に居たい。教えるのでなく、感覚を持っている人が作ってちょっとずつ体感でひろがっていくもの。

 

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Bグループ:その人と安心する、という人が見つけられたら安心して学べる場所ができる。こうしたい、居たい、居心地がいい、と感じられる場所がつくられたら。今日、話してみて周りがうなずいてくれた、話しやすくなる。認められている感じがする。

 

最後に瓜生さんからコメントをいただきました。

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瓜私がこの個体として生まれ出た悲しさ・寂しさ。だれかの涙を見た時、涙は感情より先に出る。人間って共感するものが体に備わっている。「慈悲」は慈しみと悲しみ。一緒に悲しんでくれる存在がいると思うと心強い。

浄土真宗の教え。仏さまの「お前を救う」という心に頷く→地獄も怖くない。私たちにもこの私と一緒に悲しんでくれる存在が一緒にいる、そしてこれからも居ていいよというもの。それはすごく安心する。

とのことでした。

 

それこそ安心できるような素敵なお話で、熟議でも深い話ができたように感じました。

瓜生さん、ご参加いただいたみなさん、ありがとうございました!

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